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山種美術館
山種美術館
〒150-0012 東京都澁谷区広尾3-12-36


Hayami Gyoshu: Eternal Challenges to Nihonga
― A special Exhibition commemorating the Opening of the New Yamatane Museum of Art ―

新美術館開館記念特別展 速水御舟 -日本画への挑戦-

―御舟最晩年の未完の大作《婦女群像(ふじょぐんぞう)》初公開!―

大正から昭和を駆け抜けた日本画家・速水御舟。40年の短い生涯におよそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」と称されていました。
本展では、山種美術館所蔵の御舟作品をすべて展示し、皆様にいま一度、御舟作品の凄みを体験していただきたいと思っています。


会期: 2009 10/1(木)〜11/29(日) 展覧会は終了しました。
開館時間:10:00〜19:00 (入館は16時30分まで)
休館日:毎週月曜日(10/12、11/23は開館、翌火曜日は休館)
会場:山種美術館


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速水御舟《炎 舞》

速水御舟 《炎 舞(えん ぶ)
(重要文化財) 1925(大正14)年
第1回個展 絹本・彩色 山種美術館蔵



…近来速水君の死ほど驚いたことはない。今、速水君を失ったことは美術院にとって
どんな大きな損失であるかわからない。…         「若い人々へ」 横山大観

【展覧会の構成】

新美術館開催記念特別展である本展では、山種美術館蔵の 《炎 舞(えん ぶ)》 《名樹散椿(めいじゅちりつばき)》 (重要文化財)をはじめとする 120点の御舟作品に加え、初公開となる未完の大作《婦女群像(ふじょぐんぞう》および 1930年の渡欧日記(ともに個人蔵)も展示します。これらの新出資料を通じて、40歳の若さで急逝した御舟が新たに目指していた方向性が明らかになることでしょう。

第1章 画塾からの出発 速水御舟

第1章 画塾からの出発
御舟の画業は14歳の時、近所にあった著名な歴史画家松本楓湖の安雅堂塾に入門して日本画を学ぶことから出発した。画塾での粉本(絵手本)模写を通じて中国画、琳派、土佐派、狩野派、円山四条派、浮世絵など、数多くの流派を幅広く学び、その技術は磨かれていった。
速水御舟 《山科秋(やましなのあき) (写真中央)1917(大正6)年 絹本・彩色 山種美術館蔵


第2章 古典への挑戦 速水御舟

第2章 古典への挑戦
琳派は、御舟が生涯を通して意識し続けた古典である。安雅堂画塾で琳派の粉本を模写して以来、琳派の作品からの影響は常に一貫して御舟の制作の根底にあったと思われる。御舟が精力を傾けて描いた2作の屏風《翠苔緑芝》、《名樹散椿》(重要文化財)は、琳派的な構成を最も強く意識的にとりこんだ作品である。
速水御舟 《翠苔緑芝(すりたいりょくし)1928(昭和3)年 紙本金地・彩色 再興第15回院展 山種美術館蔵


第3章 渡欧から人物画へ 速水御舟

第3章 渡欧から人物画へ
御舟は、1930(昭和5)年、ローマ日本美術展覧会の使節として横山大観らと渡欧、10ヶ月間ヨーロッパ各地を歴訪。エル・グレコほか、たくさんの西洋絵画を実見した。帰国後にそれまでほとんど制作していなかった人物画に意欲的に取り組むようになる。
御舟最晩年の未完の大作 《婦女群像》(写真左) もこのたび修復されてよみがえり初公開となる。
速水御舟 《婦女群像(大下図) 1934(昭和9)年 紙本・木炭 個人蔵


第4章 挑戦者の葛藤 速水御舟

第4章 挑戦者の葛藤
渡欧後の御舟は、人物画に新たな展開を示す一方で、多くの花鳥画小品も制作している。これらの作品では、自然の写生から離れた大胆なデフォルメと構図上の工夫が重視されている。このように、 御舟は自分の作品を冷静に分析できる画家であった。同時に、このままではいけないという葛藤を常に抱えていたのである。
速水御舟 《牡丹花「墨牡丹 (すみぼたん)」 1934(昭和9)年 紙本・墨画彩色 山種美術館蔵


速水御舟

速水御舟 (1894-1935)

略歴:本名蒔田栄一
1894(明治27)年、東京に生まれる。
1908(明治41)年、松本楓湖に師事。1909(明治42)年、速水姓となる。
1911(明治44)年、今村紫紅と知り合い、紅児会に入会。
1914(大正3)年、御舟と改号、再興第1回院展に《近村(紙すき場)》を出品、日本美術院院友となる。
1917(大正6)年、再興第4回院展に《洛外六題》を出品、横山大観、下村観山らの激賞を受け日本美術院同人となる。
1926(大正15)、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に《昆虫二題 葉蔭魔手・粧 蛾舞戯》を出品。同年、初の個展を開催し、《炎 舞》など17点出品。1928(昭和3)年、再興15回院展に《翠苔緑芝》を出品。
1929(昭和4)年、再興第16回院展に《名樹散椿》を出品。
1930(昭和5)年、大観らとローマ日本美術展覧会美術使節として渡欧。
1935(昭和10)年、腸チフスにより突然逝去。
そのあまりに早い死は、日本画壇にとって大きな損失であった。常に新たな画風を展開し、日本画の表現の可能性を追求、新境地を開拓した御舟の姿勢は、今日でも高く評価され、のちの日本画壇に与えた影響は大きい。


新美術館開館記念特別展「速水御舟−日本画への挑戦―」開会式

「速水御舟」 ―日本画への挑戦―      山ア 妙子(山種美術財団理事長・山種美術館館長)

…御舟は、1934(昭和9)年6月7日付の日記において、天心のもとで新日本画の創造に邁進した横山大観らを院展の第一世代、安田靫彦、小林古径らを第二世代として尊敬している。そして、自らを第三世代と位置付け「現在の状態では前者の記録を破ることは否保つことさえ覚束なそうだ。大奮発しなければならない」と気概を述べている。その意気込みは、これから見ていく彼の画風展開に明らかに反映されることとなる。下記の御舟の発言は、彼の大胆なまでの日本画への挑戦を象徴するものである。
梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。大抵は一度登ればそれで安心してしまう。そこで腰を据えてしまう者が多い。登り得る勇気を持つ者よりも、更に降り得る勇気を持つ者は、真に強い力の把持者である。 ―速水御舟―
御舟は、挑戦者であり続けようとする自らの強い意志を生涯にわたって貫き通した。…    (展覧会カタログ巻頭論文より抜粋)


お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
美術館公式サイト:http://www.yamatane-museum.or.jp
主催:山種美術館、NHK、NHKプロモーション
特別協賛:SMBCフレンド証券、鹿島、新日本空調、日本設計
協賛:アネックス 5x緑事業部、きんでん、コクヨ、越川、セコム、パナソニック電工
協力:日本通運


参考資料:Press Release、カタログ他。
※写真撮影は全て、主催者の許可を得て行っております。


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